今日は人生最後の日だ。準備ができていたと言ったらそれは嘘になるだろう。何故なら今日がその日であることを知ったのは、朝起きたその瞬間だったからだ。
ああ、そうか。今日が最後なんだな。
そうして僕はベッドから抜け出した。なんの変わりもない朝だった。カーテンの隙間から部屋に日が入り込んでいた。マグカップに牛乳を入れてレンジで温める。2分間は長かったような気もしたし、短かったような気もした。胃に感じる温もりもまたいつもと変わりがなかった。
今日は誰に会う予定もなかったが、この特別な一日くらいは誰かに会ってもいいような気がした。休日に外に出ることはあまりないのが常だった。そう、今日は日曜で、明日は月曜のはずだった。尤も、明日が突然火曜になっても金曜になっても僕はそれを知り得ないのだが。ありえない現実が形となった驚きを誰とも共有することができないというのは、少し寂しいような気もするが、致し方ないことだろう。明日は月曜だねと、そういうどこにでもあるような会話が当然のように共有された、そのまま僕の人生は終わる。その先にどんなイレギュラーがあろうとも、そこに僕はもういない。
さようならを言うために人に会うよりも、為すはずだった使命に時間を使う方がいいように思えた。会うならばと浮かんだあいつは遠くにいて会えそうもなかった。
僕は立てかけていたキャンバスの横に座った。満開の桜の木が大きく描かれている。僕はカッターナイフを取り出して腕に模様を刻み始めた。役目を終えた血液が滴り体を濡らす。ある程度進んだらハンカチでぬぐい、それを繰り返してしっとりさせる。そのハンカチを桜の木に押し付け、そのまま擦った。桃色の花びらが赤みを帯びる。それは穢れにも見えるかもしれなかった。材料が足りなくなったらもう片腕も使って同じようにした。一通り終える頃には、キャンバスだけでなく床もしっかり塗られていた。乾くまではもうしばらく掛かるだろう。桜はすっかり赤くなっていた。
この絵はしばらく前に描き上げたつもりだった。完成された美しさにこうして色を重ねることになるとは思ってもいなかったが、この鉄にまみれた花もまた美しいと思った。そっと香りを嗅ぐ。絵の具と体液が混ざり合ったにおいだ。
ふと、白色の絵の具を取り出す。チューブからパレットに垂らし、カッターナイフを唇で強く撫でる。鋭い痛みと共に血液が溢れ出し、パレットに2色目をもたらした。白と赤を筆で掻き回すと、絵の具は桜の色に変わった。そのまま筆で桜を描き足していく。絵の具は何度でも作り直し、その度にできる桜の色の僅かな変化さえ、予定されていたものかもしれなかった。
唐突な着信音に顔を上げた時には、室内には夕日が差し込んでいた。僕に電話を掛けてくるようなやつは限られている。スマートフォンを操作し応答を待った。「今日がその日のような気がしていた」とそいつは言った。
「きっと、そうなんだろうな」と僕は答える。
「今お前の家の扉の前にいる」
咄嗟にドアに目を向けたが、その向こうを確かめるには不十分だった。ゆっくりとそこへ向かう。取手に触れた瞬間、何故だかわからないが。いる、と直感した。
ガチャリ、と玄関を開ける音が妙に重苦しい気がした。電話の主はスマートフォンを耳に当てたまま、僕を見て「よう」と言った。
「上がるぜ」
「ああ……」
生活感のあるアトリエを見ても、そいつは驚かなかった。いつものように、並んでソファーに腰掛ける。
静寂の味を噛み締めながら、互いにただ座っていた。時計の針が、今日初めて鳴り出していた。
「明日が何曜か知っているか」
隣の声が言う。
「月曜、だろう」
「そうかもしれないな」
そう言ってそいつは笑う。「お前にとっての明日は月曜か?」
僕は動揺した。明日が月曜でなくても僕は知り得ないが、だとして、僕にとっての明日は何曜日なのだろうか。問われてすぐに答えることができなかった。
「お前はきっと迷っている」
そう言うそいつの視線を感じて、僕も視線を返す。
「だから俺が来たんだよ」
逸らすことなくそんなことを言ってのける。
触れた肌が血で乾いた腕をほんの少し擦り、忘れていた痛みを思い起こさせた。
「辿り着いたことを教えに来た。お前がお前であることを、可能性が目を出し葉をつけて、花を咲かせ始めていることを」
真実。会いたかったが会いたくなかった君は、伝えるためにここに来た。理解と比例して意識が遠くなっていく。その先は、もう戻ることが許されない──
「今日はお前の日曜日。そして醒めた明日は、◯曜日だ」