真っ赤な花

花を気に留めたことなんて、人生で何度あったろうか。

草木すら装飾とも思わずに生きてきた俺の腕に、いま真っ赤な花の束がある。

俺は何をしていたのだろう。
何をしようとしているのだろう?

この花々は、誰が………… 誰が?

俺が?

何もわからない。

鼻をくすぐる、控えめだけど輪郭のある香りが、どこか懐かしい。

俺は、この花を育てていたような気がする。

俺は、この花をもらっていたような気がする。

花を、気に留めたことなんてなかった。
なかったはずなのに。

この花の名前を、俺は多分知っている。

映画館の誘い

「どうして君はそう意固地なんだ」
「いや、俺は冷静に事実を述べているだけだ」

その会話に耳が気付いたのは、喫茶店でウェイトレスにコーヒーを注文し終えたあたりからだった。

「けれど彼女は、君を映画館に行こうと誘ったのだろう」
「そうだ。でも彼女にとって映画館は特別な場所じゃない」
「だとしても、だ。君を誘ったということに、何か意味があるとは思わないのか」
「俺の予定が空いていたこと以上に、意味があるとは思えない。彼女はただ単に、連れが欲しかっただけだ」

白いジャケットを羽織った小綺麗な男が、うーんと唸りながら仰け反る。

「君は誰かを誘ったりはするのか、普段は」
「いや」
「その子だって普段から誰かを誘うような子だとも言い切れないじゃないか」
「誰かと出かけたという話は、確かに聞かない、が」

黒縁眼鏡の真面目そうな青年が、表情少なに俯く。

「相手が俺である必要はないだろう」
「だから、何故そうなる」

ウェイトレスがコーヒーを運んでくる。
僕は軽く礼をし、視線を彼らの方に置き戻す。

「大体、その映画だって君の好きな作品の新解釈版だろう。元の設定を前提に、今の時代に合わせて新しく作られた、新規層にも見やすい話題作だ。君だって観に行きたいと言っていたじゃないか」
「それがどうした」
「彼女のような、普段映画を一人で嗜んでいるであろう人間が、この作品に限って一緒に観に行かないかと誘ってきた」
「気を利かせてくれたのだろう」
「利かせるなら一人で行かせるだろうが!」

ジャケットの男がもどかしげに平で机を叩く。
眼鏡の青年の瞳が困惑に揺れたように見えた。

僕はハンドルに手をかけたままのコーヒーをすする。
熱さが舌先にじんわりとした感覚を残し、喉を下っていく。

「彼女も作品に興味を持ってくれたのは嬉しいよ」

視線がテーブルの上を彷徨っている。

「でもそこに期待をするのは、……違うんじゃないか」
「……。君……」

何かを言いかけた、ような気がした。
男は青年を見つめ、ゆっくりと視線を落として、目を閉じる。

「そう、か。そうなんだな」

男が口を付けたカップは、思ったより大きく傾いた。
チンと皿が鳴る。

ふ、と儚く笑った青年が、

「俺だって、誰とでも映画を観に行くような人間じゃないんだ」

そう呟いて外を見つめる後頭部から、僕は目を離せずにいた。

落雷

ときに人は雷に打たれると言う。

脳天から入った電気は、足へと伝わりそのまま大地へ抜けていく。
致死率は30%とも言われるこの現象は、生きるも死ぬも、当たるも当たらぬもそれこそ天任せだ。

その落雷が、今日俺の体を貫いた。

100万分の1の確率。いや。
この数字は疑わしいと、打たれた人間としては考えるわけだ。

雷に打たれた人の話は時折耳にすることがある。
そのうちのひとりに今俺はなったのだ。

時が止まったいま、自分が生きているのか死んでいるのか掴みあぐね、いや……

生きたのか、死んだのか、その答えを、
目の前で見つめるあなたの瞳に、問われている。

賞味期限

本には賞味期限がある。

よほど劣悪な環境でなければ、買われた本は綺麗に積もられたまま、しずかに読まれる時を待っているように思われるかもしれない。

迎えられたばかりの本は、瑞々しくて、ほのかに甘い香りを放っている。
けれど開かれず置かれていると、出会った時に試した味わいももう分からなくなってしまい、なんとなく褪せたように思われるものだ。

それが、本の賞味期限だ。
食べられるけれど、風味の保証はなされない。

試しのようなもの

人との繋がりと変化。蘇生しゆく意識。怠慢は流れのままに。

飛び出していく思い出と仲間。家族と放射状の流れ星。仰げばいずれ色褪せていく。

友はいつもその側に。普段とその都合に沿っていく楽しみと景色、それを遊ぶのもまた面白いこと。

果実は朽ちて仲直り。噴火の後に地は元どおり。更になった城跡地。

 

今日もまたおはよう。

境の血龍

 事故だ。

 車内に収まっていたはずの僕の体は、夜道の硬いアスファルトの上に横たわっていた。

 助けを呼ぼうとか、起き上がらなければとか、そういうことを考える余裕もないくらい、体の様子が"わからなかった"。あるいは無意識に知っていたのかもしれない。

 視界の端に、買ったばかりの車が無残にひしゃげているのが見える。

 ああ、あれに乗れたのはほんの僅かな間だったなあ。もう運転はできないだろうな。

 そんなことを考えながら、おや、と思う。もう運転はできない? 何故そう思うのだろう? あの車を運転はできなくとも、もう一度車に乗る時が来れば……

 左足の惨状に気付いたのは、この時だった。僕の左足は途中から千切れて失われていた。

 その瞬間、全身が石にでもなったかのように、僕は一切の動きが取れなくなった。ただでさえぬくもりの感じられない体が、凍るように冷えた。上がらない悲鳴が頭の中を支配して、あるはずのない現実と絶対的な恐怖、そして遅れてやってきた痛みが、動けない僕に容赦なく襲い掛かる。他のことなどもう何も考えられなかった。意識も体もどこにも逃げることができない。絶望感に意識が遠くなりかける。

 突然、熱を持った何かが体の中を掻き回すようにグルグルと暴れだした。全身が痙攣する。左足が歪んだような感覚がしたのも束の間、千切れた脚から赤黒い液体が大量に吹き出して──そのまま蛇のようにとぐろを巻き、首をもたげた。

《お前の望むことはなんだ?》

 龍のような"それ"は、こう語りかけてきた。

「望むこと……?」

《そうだ。お前の望みはなんだ?》

 そう言って龍は僕を見下ろしている。口元に蓄えられたヒゲが風もないのに揺れている。角度が少し変わるたび鱗が表情を変え、その体がなみなみとした液体──僕の血液によって成っていることを思い出させられた。龍の荘厳な印象に、僕はただ圧倒されていた。